代官坂とは?
代官坂は、横浜市中区元町から山手本通りへと続く歴史ある坂道です。横浜開港後、関内の外国人居留地と山手の居住地を結ぶ重要なルートとして利用されました。
坂の名の由来は、横浜村の名主・石川徳右衛門の屋敷が坂の途中にあったことにあります。彼は幕末の開港期に横浜村の運営を担い、1854年のペリー来航時には応接の設営や食糧の手配を担当しました。その功績から、名主でありながら代官と呼ばれるようになり、坂の名も「代官坂」となったとされています。
代官坂
この坂は、山手の丘を越えて北方・本牧へ行く道で、箕輪坂と称していましたが、坂の途中この地に横浜村名主石川徳右衛門が居住していたことから、代官坂と呼ばれています。
幕末開港前後の当主徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場の設営、食糧、その他の設備一切を掌(つかさど)りました。嘉永7年(1854年)3月9日(4月6日)、ペリーが横浜村に上陸し住民の暮らしぶりを視察した折に屋敷を訪れ、徳右衛門が供応した様子が「ペルリ提督日本遠征記」に記されています。その後徳右衛門は、横浜町惣年寄となり町政を担当しました。
明治7年(1874年)、坂の上(山手町75番地)にバプテスト自由伝道協会のネーサン・ブラウンが教会堂を建て布教の拠点としましたが、火災で消失しその後、明治27年(1894年)、ベンネットが横浜第一バプテスト教会と称し、教会堂を坂の途中(現在元町2丁目80番地)に移転しました。大正12年(1923年)寿町に移転し、跡地に「日本バプテスト発祥の地」の記念碑を建立しました。
代官坂の碑より
🕰️ 代官坂の歴史をたどる
かつて「箕輪坂」と呼ばれていた代官坂は、丘を越えて本牧へと続く道でした。幕末から明治にかけては、開港に伴い外国人居留地の住人たちが関内との往来に利用し、現在の元町商店街の発展にも大きく関わることとなりました。坂の上には横浜初のバプテスト教会が建てられ、現在もその歴史を伝える「日本バプテスト発祥の地」の碑が残っています。
また、坂の途中には横浜村名主・石川徳右衛門の旧宅があり、その姿は現在もほぼ変わらず残されています。石川家はペリー来航時に応接役を務めるなど、開港期の横浜において重要な役割を果たしました。この地を訪れると、開港当時の横浜の面影を感じながら歴史散策ができるスポットとなっています。
📷 今昔写真で見る代官坂の風景
『菊ちゃんの横浜歴史探偵』では、歴史的な視点から横浜を深掘りするために、「横濱今昔写真」とのコラボレーションを行っています。
「横濱今昔写真」は、横浜の街並みの「昔」と「今」を比較しながら、その変遷を記録・紹介するプロジェクト。今回は、貴重なアーカイブ写真をもとに、代官坂周辺の過去の風景と現在を比較しながら、その歴史的背景を探っていきます。
石川徳右衛門宅の今昔
石川徳右衛門宅 大正6年(1917)
石川徳右衛門宅 現在
かつての石川家住宅は、伝統的な日本家屋の特徴を備えた屋敷でした。現在もその構造は維持されており、代官坂の歴史を今に伝える貴重な建物となっています。
代官坂上の今昔
代官坂上 明治後期(1900~)
代官坂上 現在
例えば、代官坂を登り切った先に広がる山手本通りの風景。120年前の写真には、人力車や自転車が走り、洋装の子どもたちが道の真ん中を悠々と歩く姿が映し出されています。 これは、当時は車がほとんどなかった時代ならではの光景です。現在でも昭和初期の洋館が点在するこの通りは、往時の雰囲気を色濃く残す貴重なスポットとなっています。
🎥 菊ちゃんが巡る!代官坂の見どころ
📌 石川徳右衛門の屋敷跡:坂の途中に残る歴史的建造物
📌 ブラフ溝とブラフ積み:山手外国人居留地時代の雰囲気をそのまま残す貴重な遺構として、別途詳しくご紹介予定。
📌 元町商店街と代官坂の関係:元町発展の背景にある外国人文化 (別途詳しくご紹介予定。)
📌 今昔写真で見る坂道の変遷:120年前の風景との比較
📢 まとめ
代官坂は、横浜の開港とともに発展し、今もその歴史を静かに語る坂道です。『菊ちゃんの横浜歴史探偵』では、今後も横浜の歴史的なスポットを巡りながら、街に眠るストーリーを探求していきます。
代官坂通り
次回もお楽しみに!
※本記事の歴史情報は、横浜市内の記録資料および石碑を参考に作成しました。