📖 はじめに:横浜が“国際都市”になった日
1859年の横浜開港以降、横浜は急速に異国文化と交わる都市へと成長しました。
その象徴ともいえるのが、「外国人居留地」。この場所がなければ、元町商店街や山手西洋館は存在していなかったかもしれません。
**『菊ちゃんの横浜歴史探偵』**で紹介している多くの場所は、この外国人居留地の影響を受けて発展してきました。
今回は、その「外国人居留地」について、少し深掘りしてみましょう。

1️⃣ 横浜の外国人居留地とは?
外国人居留地とは、幕末の安政五カ国条約(1858年)により、外国人が住み、貿易を行うことが許可された特別な区域です。
横浜では、**「山下町」と「山手」**に2つの居留地が作られました。
- 山下居留地(山下町):外国商社や銀行が立ち並ぶ「ビジネス街」
- 山手居留地(山手町):外国人が暮らす「住宅街」
この2つのエリアを結んでいたのが、「元町」。外国人居留地で暮らす外国人たちが日用品や洋服を買うために元町商店街が発展していきました。
📷 横濱今昔写真で見る居留地の風景
『菊ちゃんの横浜歴史探偵』では、歴史的な視点から横浜を深掘りするために、「横濱今昔写真」とのコラボレーションを行っています。
**「横濱今昔写真」**は、横浜の街並みの「昔」と「今」を比較しながら、その変遷を記録・紹介するプロジェクトです。
横浜の街の歴史的なスポットやその変遷を知ることで、より深く街を楽しむことができるはずです。
🏙 山下居留地の今昔
山下居留地 – 明治後期(1900~)
現在の横浜中華街前から山手方向を望む構図です。かつては外国商社や銀行が立ち並び、国際色豊かなエリアとして活気づいていました。


🏡 山手居留地の今昔
山手居留地 – 明治後期(1900~)
外国人墓地正門近くから「港の見える丘公園」方向を望む構図。山手居留地は外国人の住宅街として栄え、多くの洋館が建ち並んでいました。現在でも山手西洋館や外国人墓地など、当時の面影を残すスポットが多くあります。


2️⃣ 元町は外国人文化とともに生まれた街
「元町」は、もともとは小さな漁村でした。しかし、居留地ができたことで街の風景は一変します。
外国人たちに向けたパン屋、ブティック、西洋家具店が次々にオープンし、職人たちは外国人の好みに合わせた商品を作り始めました。
- パン屋 → 外国人向けの本格的なパン文化が元町から始まった
- 洋服店 → 日本人職人が外国人のために仕立てた洋服が「元町スタイル」に
- 家具屋 → 西洋式の家具製作が盛んに行われた
このようにして、「元町商店街」は横浜で最初に“異国情緒”を取り入れたエリアとして発展しました。
📷 元町通りの今昔
元町通り・ウチキパン – 明治後期(1900~)
写真には、現在も営業を続ける「ウチキパン」の看板(「宇千喜」)が写っています。
1868年創業のウチキパンは、日本初のパン屋として有名で、当時から外国人居留地の住人たちにも親しまれていました。


今でもウチキパンの味を求めて多くの人が訪れ、元町のシンボルの一つとなっています。
3️⃣ 山手と山下町、2つの居留地の違い
エリア | 特徴 | 代表的な場所 |
---|---|---|
山下町 | 商業エリア(外国商館が立ち並ぶ) | 関内、旧英国領事館 |
山手町 | 住宅エリア(外国人が暮らした地域) | 山手西洋館、外国人墓地 |
- 山下町は、貿易やビジネスの中心地として、多くの商館や銀行が立ち並びました。
- 山手町は、緑豊かな住宅地として外国人たちに親しまれました。
『菊ちゃんの横浜歴史探偵』で紹介した代官坂やアメリカ山公園も、この山手エリアの中にあります。
4️⃣ 住む・働く・買い物をする——「異国文化」が根付いた街
横浜の居留地は、単なる外国人の居住区域ではありませんでした。
生活のあらゆる側面で日本と外国文化が交わる場所だったのです。
- 「住む」 → 山手の外国人住宅
- 「働く」 → 山下町の商館や銀行
- 「買い物」 → 元町商店街で日用品や洋服を購入
こうして、外国人の生活と日本の文化が交わる街が生まれました。
今でも横浜に“異国情緒”が残っているのは、この歴史があるからこそです。
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